日本のミナトは日本経済の発展とともに拡大し変容を続けてきた。象徴的な横浜港にその変遷と課題をみる。

日本は国土の広さで世界の62番目だが海岸線の長さでみれば世界6位の国だ。この日本に漁港をふくめると3000近い港があり、国内、海外との貨物輸送の重要拠点として位置づけられる港湾が全国に102港と、国土面積当たりの港の数でいえば間違いなく世界一だろう。

貿易立国日本を支える国際輸送貨物を扱う拠点港湾は北海道から九州まで18港、さらに東京、横浜、川崎、神戸、大阪の各港は「国際戦略港湾」(スーパー中枢港湾ともよばれる)に指定され、国際ハブ港としての役割を期待されている。

日本のミナトは、戦後の復興とともに国内の大量・長距離海上貨物輸送の拠点として、また経済成長の原動力となる国際貿易の重要結節点として拡大、発展してきたが、その全体像は国民の目からはなかなか捉えがたく、同時にさまざまな課題も抱えているようだ。

◆生糸輸出が大当たり

わが国で最初に「開港」した横浜港の発展の歴史は象徴的であり、概観してみたい。人口500人ばかりの小さな漁村だった横浜は1859年開港後、いまの日本大通りを海岸に突き当たったあたりに2本の突堤をつくり(これが現在の「象の鼻」にあたる)、沖がかり(沖合に錨泊)した本船とのあいだを艀(はしけ=小型の船)で行き来して貨物を揚げ積みするミナトからスタートブームにのった日本の生糸の輸出が大当たりして、ここ横浜港が港として発展し、日本の近代化の礎となる貿易の拠点となっていったことは歴史書に詳しい。

貿易量の急増にともない、明治20年代から大正のはじめにかけて大型船が直接接岸できる埠頭の建設・整備がはじまり、現在の大さん橋(当時は鉄桟橋とよばれた)、赤レンガ倉庫のある新港埠頭(埋立地)などがつくられ近代的な港湾として形が整えられていった。

現在帆船日本丸が係留されている地に横浜船渠(三菱重工横浜造船所の前身)がつくられたのが明治24年、大型船が行き会い、多数の艀や小舟で賑わうようすはまさに外国に開かれた海の玄関といったところだろう。いまかろうじて観光的な遺跡として残っている内防波堤から内側の半径1kmほどの水域が当時の横浜港のすべてだった。

このころから、川崎から神奈川にかけての海が埋め立てられて京浜工業地帯として発展が始まり、同時に工業地帯に隣接した水路・運河に港が築かれ、港域は北に拡大、川崎地域との一体化が進んでいく。

1923年の関東大震災で大打撃を被ったが、昭和の初めころにはほとんど元の姿にまで復興が進むとともに、埋め立て地の拡張と軍需産業をはじめとする工場の建設によって港の機能も重要性も拡大。しかし戦争がはじまり空襲による破壊と、敗戦による港湾施設の接収により、1949年まで民間貿易港としての機能は完全に止まる。

戦後は経済復興と高度経済成長の時代を迎え、早くも1957年ごろには横浜港の貿易量は戦前を凌ぐまでに回復した。

このころから日本経済の拡大にともなう原油やガス、鉄鉱石、石炭などの資源物資、穀物や飼料などの輸入も急増、これに応えるため船の大型化とともに輸送貨物に特化した専用船化に拍車がかかり、これらの船を受け入れる専用の港湾施設が既存の港の外側につくられていく。

◆革命的変化もたらしたコンテナ輸送

さらに一般雑貨の貿易に革命的な変化をもたらしたのが日本で1968年から始まったコンテナによる海上輸送だ。たちまちコンテナ船が在来貨物船を駆逐し、巨大化が始まる。

昭和30年代から港域は内防波堤から外に同心円的に拡大。大黒町からさらに先が埋め立てられ、根岸湾の埋立地とともにエネルギー基地を中心とする一大臨海工業地帯が形作られた。大型コンテナ船に対応した大水深の専用港湾として南に本牧埠頭や大黒埠頭さらに南本牧埠頭が埋め立てられ建設されていったのもこうした背景による。

昭和30年代はじめまでの横浜港はさま変わりし、いま一般市民、観光客が山下公園みなとみらい地区から見る横浜港は、観光施設として残ったミナトの面影にしか過ぎないのが実情だ。

これが日本の経済成長とともに発展を遂げてきた横浜港の変遷の歴史であり、東京、神戸、大阪、名古屋など大きな経済圏を背後に抱える日本の重要港湾の発展と重なる。

このように日本の港湾の主要機能は、かつてのミナトの外側に埋め立てられたあらたな地に移設、拡散され、近隣の港域と一体化するかたちで変化が進んだ。同時多発テロ以来の港湾のセキュリティー強化もあって港域への人のアプローチもままならず、一般市民にとってなかなか全体像が見えにくい所以である。海事立国ニッポンの港湾の存在と重要性をひろく国民に知ってもらうためにも、ミナトの変遷と実勢についてのアウトリーチ活動に、政府も、地方地自体も力を注いでほしいものだ。

アジアで日本の港湾地盤が沈下

さらに、近年の日本経済の低迷や、中国をはじめとするアジア諸国経済の勃興によって、世界の中で、なかんずくアジアの中で日本の港湾の地盤沈下が続いている。一般生活物資、工業部品、食料などを一手に担うコンテナ輸送において、国際ハブ港としての機能が上海をはじめとする中国の港や韓国の釜山に奪われ、日本の国際重要港湾のコンテナ取りあつかい量は低迷のまま。政府、地方自治体がすすめる主要港湾の国際競争力強化の施策が思うように進んでいないようだ。東京湾内に近接する東京、川崎、横浜のコンテナターミナルの運営を有機的に一体化し効率化や利用料金の引き下げを図るなど、過去のしがらみを超えて早期の対策の実現が望まれる。

日本のミナトについて国民の認識が広がるとともにその復活に期待したい。 ■筆者プロフィール:山本勝 1944年静岡市生まれ。東京商船大学航海科卒、日本郵船入社。同社船長を経て2002年(代表)専務取締役。退任後JAMSTEC海洋研究開発機構)の海洋研究船「みらい」「ちきゅう」の運航に携わる。一般社団法人海洋会の会長を経て現在同相談役。現役時代南極を除く世界各地の海域、水路、港を巡り見聞を広める。

日本のミナトは日本経済の発展とともに拡大し変容を続けてきた。象徴的な横浜港にその変遷と課題をみる。写真は横浜。


(出典 news.nicovideo.jp)


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